十二国記

自分にとってアニオリとは何ぞやを考えると避けては通れない会川先生作品その1.

「アニオリだから」受け入れられる、られないというのはなくて、結局のところその展開に振れた順番、原作とアニメどちらに先に触れたかってのが7割占めててあとの2割は思い入れ、そして1割が好みかなあと思うわけです。


 十二国記は、確かにいろいろ変更があるんですが、「誇張」の範囲なのかなあと思ってます。陽子の孤独も故郷(蓬莱)の自分との葛藤も、杉本や浅野の存在でより際立つ。同胞だと思ってる相手とすれ違う時こそ一層孤独なのはそうですし、一度決別した相手と再び向き合い本音を吐露し、互いの心を託しあうカタルシスもそこにある。この3人、陽子だけが言葉のハンディキャップを追わなかったわけですが、それゆえに1人だった。陽子を置いて二人でキャッキャしてるシーンほんとな。杉本本当にいいキャラだ。郵便番号のくだりもいい。彼女が蓬莱で前を向くと決意した姿は静かに応援したくなりますし、蓬莱の中嶋のお母さんと語らう姿が忘れられないんですよね。違和感があっても陽子を育んだ世界、善し悪しとは別に哀惜は当然。陽子の特異性(胎果)とは別に十全な親子関係とは奇跡のようなもの、それでも家族と慕い、理解し、自分を貶めてでも陽子の不在を納得させようとする母の姿は切ないし、そこへ「すごく帰りたかったと思います」と声を届ける成長と優しさ。
 杉本との交流という意味では高里弟も明らかに異質な兄に対して、それでも「兄貴なんだ」と葛藤をにじませていました。蓬莱の人間に顕著ですが、総じて「十二国の理を理解しない、受け入れることができない」人物へのケアが手厚かったんだなあ。展開で依怙贔屓するのではなくて、理解する導線を引く。もちろん十二国の世界で足掻き成長する陽子がかっこいいのは大前提として。その意味ではラスボス昇紘もですね。悪徳役人ではなく、天意を試そうとする一種の梟雄が、その育ちゆえに天意を根本的な所で実感として信じられない陽子を照らし出す。あそこの応酬は本当にゾクゾクしますね。「私は天の意思で来たのではない」「だからこその天意だ」。
 対照的に現実を受け入れることができず半ば狂気の世界で自分を守っていた浅野。見ていて痛々しい存在でした。心をひっかくような。いやもうほんと気の毒なんだよあ…どこかで理不尽であっても「現状を受け入れる」諦念の大切さを思い出させてくれる痛々しさ。どうすりゃよかったってったらどーしようもないのがほんと…発端は陽子の「二人も一緒じゃなきゃいかないわ」だけどここまでとは思ってなかったし、そもそも二人を守るために学校から連れ出したんで…それでも生きていれば、うつむくか前を向くか、その心のありようだけは選ぶ余地があってもいい。


 あとは楽俊セラピー前の祥瓊もキレッキレ。偲芳歌と宮廷ダンスはアニメだからできる美だし牛裂きは怖すぎるわ。彼女に必要なのは叱咤ではなくて「身の安全があるところでの」実感と、距離と、静かな日常だったんだなあ。十二国の生活が映像で描かれるとやはり受け手にとっても実感になりますね。祥瓊にすべきことはたくさんあったし、彼女自身宮廷人たちの心を読む賢さを備えたひとで、ちょっと目線を変えればそれは「できること」、少なくとも「手を付けられること」ではあったのかな、でもその違う角度から見るのが一番難しいことなのかもですね。当たり前だと思ってることを疑う難しさ。それを果たせなかった過去の自分を愚かだと彼女は悔いるけど、自分も国も幸せだと疑わなかった偲芳歌は確かに汚れなく美しく、月渓がそれを「好きだった」という言葉が彼女に届いたのを、「過去は過去であり、すべて否定しなくてもいい」という脚本からの労いだと信じます。